まなブロ by 教育イノベーター本山勝寛

教育イノベーター本山勝寛の学びのススメ日誌。極貧家庭から独学・奨学金で東大、ハーバード大学院に通い、国際教育政策修士課程修了。日本財団子どもの貧困対策チームリーダー。『今こそ「奨学金」の本当の話をしよう。』 『最強の独学術』等著書多数。

Boys, Be Hungry! 〜東大・ハーバード受験期

第一章「飢えと渇き」

前回①生い立ちからの続き

②野球

そんな父も家を出ることになった。海外、しかも中米の貧しい国、ホンジュラスという国に飛んだ。父は牧師で、人のため世界のために働くことを生きがいとしていた。給料がなくとも慈善事業を進んで行った。父はその聞いたこともない国に行く前に、僕ら子供たちに、行ってもいいか、聞いた。僕は、父が世界で役立つ仕事ができることが誇りだったので、賛成した。僕が高校1年生、15のころだった。

小学校から続けていた野球は、遂に憧れの高校野球というステージにあがっていた。もちろん、夢は甲子園だった。一個上の学年に一人しか先輩がいなかったので、僕ら一年生は早い段階から試合に出て、レギュラーになった。初めての硬式ボールに、たくさんのあざを作りながらも、すぐに慣れていった。1年生中心のチームでも勝てるようになった。
秋。
父はすでに飛び立っていた。父と約束して野球を辞めることにしていた。野球を続けるお金もないし、生活費のためにアルバイトをせざるを得なくなったからだ。父と約束して、その年の最後の大会である一年生大会を野球人生の最後とすることに決めた。その大会で、僕はいつになく活躍した。もともと守備に自信はあったが、打撃のほうでも活躍した。決して強豪でもない僕らは県の決勝戦に進んだ。決勝戦では強豪柳ヶ浦に惜敗したが、準優勝を飾った。僕は、準決勝の大分商業戦が忘れられない。大分商業は古豪で、僕が高校3年のときに大分県代表として甲子園に行ったチームである。僕らの歳の野球世代は、「松坂世代」と呼ばれている。横浜高校の松坂を筆頭に、野球人材が豊富だった年だ。その松坂率いる横浜高校と1回戦で当たったのが大分商業である。もし僕らが勝ちあがっていたら、松坂と対決していたかもしれない。もし僕が野球を続けていたら、ベスト4までいったその年の県大会で優勝していたかもしれない。今でも、いろんな妄想で過去を振り返る。とにかく、僕の最後の大会、一年生大会では、その大分商業に勝って決勝に進んだのだ。松坂と投げ合った投手から僕は猛打賞を打ち、チームの勝利に貢献した。忘れられない1試合だった。
その大会が終わり、僕は監督に家の事情を説明して野球部を辞めることを告げた。僕は泣いた。野球を辞めること、家の苦しい事情、いろんなことが重なって悔しかった。人前で泣くのは久しかった。おそらく、中学最後の野球の試合で負けたとき以来だったと思う。


続く・・・


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