以前の記事に、自分がなぜハーバード大学院に合格できたのかということについて書きました。
その要因を一言で、
「渇望感」
と表現しましたが、
言い換えれば、
「飢餓感」
と言ってもよいかと思います。
この要素は、自分自身が7年前、東京大学に合格したときの最大要因と全く同じであったと認識しております。(僕は高3が始まるまで全く勉強していなかった状態から独学1年で現役合格しました)
自分はこのことを、日本の同世代(といってよいか分かりませんが、10、20代)の方々に、ぜひとも伝えたい気持ちを持っております。
そこで、「本」という形で広く伝えられたらと思い、執筆を以前に始めましたが、出版まではまだできないようなので、本ブログで掲載していこうと思います。
たとえ一人でも、「何か」を感じることができたなら、幸いです。
一章「飢えと渇き」
1998年、夏。
僕は17回目の夏を迎えた。どんな夏も暑いものだが、その年の夏はただひたすら暑かった。
最高気温40℃?
真夏日連続記録更新?
いや、そうではない。
その年の夏、僕は戦った。
「受験戦争」
日本の受験競争の厳しさから、人々はそのように形容する。勝った者は笑い、負けたものは泣く。1点2点の差が合否を左右する。未だに残る学歴社会を前にして、その1点が人生を左右するのか…そうではないと否定したくもなるが、当事者としては、それはやはり戦争なのかもしれない。負けた者は敗者、勝った者は勝者。子供が初めて深刻に経験する競争社会の入り口なのかもしれない。
「夏は受験の天王山」とも言われる。特に現役生にとって、授業のないこの期間、どれだけ集中して学力を伸ばせるかは、合格のための一つのキーである。
僕は、その受験の夏、ひたすらに汗をかき続けた。ギラギラと渇き、飢えていた。
?生い立ち
僕は、貧しい家庭に生まれた。
母は、僕が12の頃、他界した。
母はとてもやさしかった。少し太り気味の体でいつもやさしく僕を包んでくれた。僕の家庭は三男二女の五人兄弟だ。僕は三男で四番目。特に、下の三人、一個上の兄と三つ下の妹と僕とでいつも母を取り合った。寝る前に、母が本を読んでくれるのが僕らは大好きだった。兄と妹は甘えるのが得意で、いつも母の両脇をかためた。恥ずかしがり屋で、甘えるのが苦手な僕は、母の頭の上で寝そべった。母の温かいぬくもりを感じることはできないが、母にとって特別な位置にいるようでうれしかった。
その母は、僕が中学に入る直前に天国へと行った。大きすぎる学ラン姿を大好きな母に見せたかったが、その夢は叶わなかった。
母が他界して以来、父が一人手で僕らを育てた。
ご飯も父がよく作ってくれた。父は短時間で料理をしあげてしまうのが得意だ。忙しい仕事の合間を縫って、2,30分で料理を仕上げる。その味は・・・何とも言えない。色はだいたい茶色の単色。それでも食べると味わいがあった。特に、家で漬ける漬物がおいしかった。きゅうり、なす、かぶ、ぬか漬けにはまった父は、だんだんとその腕をあげた。そして我が家の冷蔵庫と台所はだんだんとぬかの匂いが充満した。それから、父が作る「だんご汁」の味も忘れられない。だんご汁は地元大分の郷土料理だ。本当のだんご汁がどんなものなのか実はよく知らないが、父は味噌汁のようなものに、小麦粉のかたまりをおもむろに入れて作る。その歯ごたえが何とも言えない。父が作る我が家の唯一の「ごちそう」だったかもしれない。父の料理は味わい深いが、父の作るお弁当を持っていくのはとてもいやだった。部活や運動会、遠足で持っていく父の手料理弁当はいつも茶色一色だった。色とりどりのおかずが並ぶ、友だちの弁当とは華やかさが違う。僕はなるべく友だちに弁当の中身を見られないように急いで食った。味はどうでもよかった。
続く・・・
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