本山勝寛 4kizフォーキッズ代表 公式ブログ | Katsuhiro Motoyama's Official Blog

教育イノベーター本山勝寛の学びのススメ日誌。極貧家庭から独学・奨学金で東大、ハーバード大学院に通い、国際教育政策修士課程修了。日本財団で教育、国際支援、子ども支援事業に携わり、EdTechスタートアップを起業。 子供向けSNSフォーキッズを立ち上げる。『好奇心を伸ばす子育て』『最強の独学術』等著書多数。6児父4回育休。

幸せってなんだろう?〜父からのナゾナゾ


(写真:筆者の家族、最右下が筆者。末妹は母のお腹の中。)

「なぜ人は学ぶのか」、そのヒントを探るため、幼少期に学びを加速させる兄妹関係や、知をおもしろきものに発展させてくれる友人関係といった横の関係について考えてきた。次は、同じように縦の関係について考えてみたい。まずは親子の関係だ。

親が子の学びにとって多大なる影響を及ぼしていることは万人の認めるところだ。親の学歴と子の学歴が強い相関関係をもっているという統計データはその一部を示している。その理由を、親が子に提供する学校や塾、習い事などの学習環境にあると考える人もいれば、遺伝的要素に起因すると考える人もいるだろう。しかし、そのような統計的傾向は全てを語っているわけではない。また、「なぜ人は学ぶのか?」という問い、あるいは子どもが持つ「なぜ勉強しなきゃいけないの?」という疑問に対する答えにもならない。

「お父さんはがんばって勉強していい大学に入って、いい会社に入って、こうして家族のみんなが安心して暮らせるようなお給料をもらえているんだ。お前がこうしておいしいものを食べたり、好きなゲームを買ったり、塾や習い事に通うことができるのも、お父さんが子どものときがんばって勉強したからなんだよ。だからお前も今は大変かもしれないけど、がんばって勉強しなさい。」

父のこの言葉を聞いて、子どもは納得するだろうか。では、次のお父さんはどうだろう。

「お父さんは子どものとき、お前みたいに勉強が嫌いだった。大学も行かなかったけど、なんとかみんなを食わせてあげられるくらいの仕事はやっている。でも、不景気な世の中でいつリストラされるか分からないし、子どものときもっと勉強していれば、もっといい給料がもらえる職に就けていた。お父さんみたいに大人になって後悔したくないなら、今はがまんしてでも勉強しておけ。」

今の日本の家庭では、本当にこんな会話が交わされているのかもしれない。いや、こういった会話が親子で交わされるなら、まだましな方だ。実際はそんな会話もなく、そういったぼやきや背中から発するオーラによって子どもが親のメッセージを察知し、納得のいかないまま失望し、「大人の事情」に妥協しながら生きているのかもしれない。かつて持っていた輝くような瞳を曇らせ、無限の好奇心をしぼませながら。

私は、親と勉強について話をしたことがほとんどない。母は私が小学校6年生のときに亡くなり、父は仕事で忙しくほとんど家にいなかった。さらに高校1年生のとき、父は慈善活動のため海外へ飛び立ち、両親が家にいなくなる状態が約3年続いた。だから、勉強に疑問を持つ年頃に親が近くにいなかったというのが実情だ。ただ、親の話のなかで覚えていることがいくつかある。

1つは「幸せとは何か」ということ、もう1つは父と母がいかに仲がよいかという自慢話である。

父はある集会で「幸せとは何か」について大人たちを相手に話をしていた。私はそこにたまたま参加していた立場だ。「幸」という漢字を分解して見ると、「+−=−+」となっている。だから幸せとは、+と−が一つに合わさることなんですよと話していた。

また、当時よくテレビで流れていた「お仏壇の長谷川」のCMを例に挙げて、「お手てとお手てのしわを合わせて、しあわせ、ナームー」という言葉は正しい。合掌して感謝し、先祖に敬意を表することで幸せは訪れる。けれど、もっと幸せになる方法がある。自分の片方の手のしわではなくて愛する人の手のしわと合わせることだ。それが一番の「しわあわせ=幸せ」だ、と話していた。

さらにこうも言っていた。「しあわせ」は「四合わせ」、つまり四つが合わさっていることなんです。その四つとはなんでしょう?父と母と子、そして神様のことです。神様は私の親であると同時にみんなの親ですから、皆さんの家庭が「四合わせ」になれば全ての家庭が幸せになるんですね。

中学1,2年くらいの頃、父のこの話を聞いて、なんだかちょっぴり自分も幸せな気持ちになった記憶がある。とはいえ、父の謎かけのような話がすぐに理解できたわけではない。「+と−ってどういうことなんだ?」「四つが合わさるってどういうことだ?」「幸せってなんだろう?」正解はまだつかめていなかった。ただ純粋に、幸せという一つの言葉だけで、よくもまあこんなことを考えるなあと感心したことは事実だ。漢字の成り立ちについても関心を持つようになった。

もう一つの話だが、これも漢字にまつわるものだ。父も母も同じ大分県の出身だが、それぞれの故郷は県北と県南の反対側に位置する。父は北の杵築高校、母は南の臼杵高校を出た。「だからお父さんとお母さんは杵と臼なんだよ。お父さんが餅をついて、お母さんがそれを受け止めてくれる。性格は正反対だけど、お互いが尊敬し合う名コンビなんだよ。」私たち五人兄妹は、この話を耳にタコができるくらい聞いている。直接聞くこともあるし、人に話をしているのを聞くこともある。

この話をよく聞くようになったのは、母が他界してからのことだ。父は母が亡くなったあと、母の靴を玄関にそろえたり、母の服をハンガーにかけ毎日取り替えたり、母のお箸を出して一緒に食べましょうと語りかけて食事をしていた。正直、私には母の姿が見えなかったが、父が母を想っている姿は嬉しかった。「杵と臼」の関係は、臼が見えなくなっても続くんだろうか。「なんでお父さんはお母さんが死んでからも、一緒に過ごしているみたいなんだろう?」これも、父から子へのナゾナゾだったのかもしれない。

親と勉強の話はしなかったが、これが、私が青少年期において最も記憶している親の話である。世の中には目に見えるものだけでなく、目に見えなくても大切なものがあるのだろうか。私はそんなナゾナゾを解かされるはめになり、目に見えない「四合わせ」の四つ目がどんなものであるのか気になり始めた。


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