まなブロ by 本山勝寛

「学びのエバンジェリスト」本山勝寛の学びのススメ日誌。極貧家庭から独学・奨学金で東大、ハーバード大学院に通い、国際教育政策修士課程修了。日本財団子どもの貧困対策チームリーダー。『今こそ「奨学金」の本当の話をしよう。』 『最強の独学術』等著書多数。

もののけ姫とハンセン病と生きるということ

昨晩、『もののけ姫』が放送された。ツイッター上の人気ワードはもののけ姫の関連ワードで埋めつくされ、「バルス!」で記録をつくったラピュタを彷彿させるさすがの人気作品だ。

もののけ姫には様々なメッセージが込められているように思うが、その一つを少し考えてみたい。

作中、エボシが「ここは誰も近寄らぬ私の庭だ。」と言ってアシタカを案内した先に、全身に包帯を巻いた人たちが現れる。この人たちはハンセン病の患者をイメージしたものと言われている。

ハンセン病は20世紀後半に治療法が確立するまでは、病気にかかると手足や顔などが変形し障害が発生することなどから「業病」と恐れられ、人々から過酷な差別の対象にされてきた。多くの人が家族からも捨てられ、行く宛先もなく放浪し、人里離れた場所で孤独に生きるしかない運命を背負わされてきた。完全に治る病気になり、早期に治療すれば障害も発生しなくなったにもかかわらず、隔離という名の差別を是認する「らい予防法」が日本でようやく廃止されたのは1996年のことだ。

作中ではこんな台詞がある。

「お若い方、わたしも呪われた身ゆえ、あなたの怒りや悲しみはよくわかる。わかるがどうかその人を殺さないでおくれ。その人はわしらを人として扱ってくださった、たった一人の人だ。わしらの病を恐れず、わしの腐った肉を洗い布を巻いてくれた。
生きることはまとこに苦しく辛い。世を呪い人を呪い、それでも生きたい。
どうか愚かなわしに免じて・・・」

エボシはもののけ姫であるサンや自然界にとっては、鉄のために森を奪っていく仇敵、つまり武器や経済のために自然を破壊する人間の象徴なのだが、同時に差別されてきた人々に寄り添い、「共に生きよう」とする存在でもある。それは、タタラ場の女性たちがいきいきと働き暮らしている姿からも伺える。いまだに女性差別が問題になっている日本だが、エボシはまさに女性に職の機会を与え、女性を輝かすリーダーであるとも言える。

さらに登場人物たちに焦点を当てると、サンは山犬=犬神に育てられた人間の子だが、すなわち実の親から捨てられた捨て子だ。サンにとっては山犬であるモロが「お母さん」なのだが、そのお母さんが自分とは全く姿の異なる別の種であること、そして仇敵で自分を捨てた人間こそが自分と同じ姿であるという悲劇的な運命を当然認識しているはずだ。また、日本にも明治期には20万人ほどいたとされる、山地を移住しながら暮らす「サンカ」をイメージしているともみれる。サンカの人々も差別されてきた人たちだ。

そして、アシタカは蝦夷アイヌの人が想起される。差別的に見られてきたアイヌの村のなかでも、もののけの「呪い」を受け、育ってきた村で暮らすことができなくなった存在を象徴している。

このアシタカがサンに対して語る名言がある。

「生きろ。そなたは美しい。」

この映画を初めて観た高校生のときは、たしかにサンは美少女に描かれており違和感なくすんなりと受け入れていた。しかし、上記のように登場人物たちの抱えている複雑な背景と運命を想うときに、それは見た目の表層的な美しさではなく、親から捨てられ、人々から忌み嫌われ、生きることの辛さ、悲しさ、苦しみ、重み、怒り、それらを全て知ったうえで、それでも生きること、いや、それだからこそ生きることの美しさを語ったメッセージだったのではないかと思うようになった。

以前、「風立ちぬ」の製作過程で、宮崎駿氏がハンセン病療養所の多磨全生園に行き、そこで「おろそかに生きてはいけない」というメッセージを胸に抱き、一気に同作品を創り上げたという記事を書いた。

もののけ姫のコピーもまさに「生きろ。」なわけだが、その「生きろ。」の前には、いろいろな悲しみ、苦しみ、辛さ、怒り、絶望がある。それでも生きる。そして、アシタカは作中の最後にサンに対してこう語る。「共に生きよう。」と。それは、エボシが「業病」とされた人々の腐った肉を洗うときに発される無言のメッセージと重なっているようにも思える。

全く関係はないのだが、ブルーハーツの歌「世界のまん中」にこんな歌詞がある。

「生きるということに命をかけてみたい」

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