まなブロ by 本山勝寛 教育イノベーター・日本財団子どもの貧困対策チームリーダー

教育イノベーター本山勝寛の学びのススメ日誌。極貧家庭から独学・奨学金で東大、ハーバード大学院に通い、国際教育政策修士課程修了。日本財団子どもの貧困対策チームリーダー。『今こそ「奨学金」の本当の話をしよう。』 『最強の独学術』等著書多数。

明日ママは終わったが、「考えること」終わらせてはいけない

物議を醸したドラマ「明日、ママがいない」が最終回を迎え、全放送を終えた。私にとっては多くのことを考えさせてくれる、いいドラマだった。

作中、多くのはっとさせられる言葉があった。

「事実の親と真実の親は違うんです。」

第8回放送で、ある日突然引き取りにきた生みの親と、自分を大切にしてくれる大好きになった里親の両方に手を引っ張られるというシーンがあった。作中では、痛がっている子どものことを想い手を離したのは里親で、実親は手を離さずに引っ張り続けた。通常は生みの親の意思が優先されるのだが、「魔王」と呼ばれる施設長は、水溜りに頭をつけ、子どもに対して土下座をし、「私はこうのとりです。ときどき間違えたところに子どもを送ってしまうことがあります。事実の親と真実の親は違うんです。」と言って、子どもに「真実の親」は誰かを考えさせ、自らが選ぶことを懇願する。

このシーンは日本でいえば、有名な「大岡裁き」と重なるわけだが、もっと古くは旧約聖書のソロモン王の智恵として出てくる、「子どもを剣で切って分けよ」と言って本当の親を見分ける逸話に通じる。聖書に通底している重要なテーマの一つとして親子関係がある。イエスは「事実の父親」が誰であるのか明らかではないわけだが、「真実の親」が誰であるのかをはっきりと語っている。

我々は、生物学的に子どもを産めば、ごく当たり前かのように自然に親になるように思っている。しかし、実は「親になる」ということはそんなに簡単な、自動的なものではなく、時間と労力と、そしてこれでもかというくらい愛と心を投入して「真実の親」になれるのではないだろうか。子どもを実際に育ててみて、そのように思うようになった。

だから私には、事実の親と真実の親が引っ張り合う作中のシーンは、単に実親対里親という構図に留まる話ではなく、親である(となる)全ての人に投げかけている問いかけのようにも思える。親として、本当に子どもの心に寄り添っていますか、と。

そして、「ポスト」という呼び名。作品の意図を理解できない小さな子どもが、ふざけて使ってしまうというリスクがあることは確かだ。ただ、「ポスト」という呼び名は本人によって誇りをもってつけられた名前だった。そして、ドラマが進むにつれ、それが、それぞれの子ども(仲間)にとっての「真実の親」を探し、引き合わせる「こうのとり」の役割を果たす意味合いも込められていたことに気づく。つまり、「ポスト」は決して悪いことの象徴ではなく、「真実の親」と引き合わせるという、よい意味での「こうのとり」の象徴として使われているのである。最終回のラストシーンで、ポストの呼び名が使われなくなるのは、その「ポスト」としての役割を終え、自らも「真実の親」に出会えた後だ。

ラストシーンは以下のようなやり取りで終わるのだが、このドラマの視聴者に対するメッセージであるように思う。
ポスト「手放された子どもはつらいよね」
魔王(施設長)「手放した親も後悔して生きなくちゃならない」
ポスト「どうしたらいいのかな」
魔王「それを考える。ずっと考える」
ポスト「私も考える」
魔王「みんなで考えるんだ」

ドラマは最終回を迎えたが、親と暮らすことのできない子どもの現実は終わらない。そして、真実の親になるという宿題は、誰にも与えられた永遠のテーマであるように思う。

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追記:
先日紹介したマンガ家りさりさんの、児童養護施設を舞台にした新作も出たようなので、ぜひ読んでみていただきたい。