まなブロ by 教育イノベーター本山勝寛

教育イノベーター本山勝寛の学びのススメ日誌。極貧家庭から独学・奨学金で東大、ハーバード大学院に通い、国際教育政策修士課程修了。日本財団子どもの貧困対策チームリーダー。『今こそ「奨学金」の本当の話をしよう。』 『最強の独学術』等著書多数。

世界最大の隔離島〜韓国「小鹿島」

出張で韓国を訪問した。8年前には1年間留学もしていたが、仕事で来たのは初めてだ。目的は韓国のハンセン病関連視察の訪問だ。

韓国は今でこそ新たなハンセン病患者がほとんど出ていないが、つい数十年前まで数万人規模で患者が存在していた。今も回復者(韓国では「ハンセン人」と呼んでいる)が全国で1万人近く生活しており、多くの方が高齢となっている。そういった点では日本とも状況は近いが、大きな相違点もある。
1つは、韓国の多くのハンセン病回復者には子どもがいることだ。日本はかつてハンセン病患者を隔離収容し、子女への感染が高いという理由で結婚した男性に断種、妊娠した女性に堕胎をしていた。植民地時代の韓国でも日本のその方針をそのまま実施していたが、日本よりも約30年早い1963年に、ハンセン病患者の隔離や断種等を容認するらい予防法が改正された。その後すぐに患者・回復者への差別がなくなったわけではないが、子女を産み育てた方も少なくない。
もう1つの日本との違いは、大半が国立療養所に住んでいるわけではないこと。日本では隔離収容時代から続く全国13の国立療養所に多くの回復者の方がいまも暮らしている。1996年にらい予防法が改正された頃には多くの方が高齢になっており、療養所生活に慣れていたこと、そして故郷に帰ることが難しかったこともその要因だろう。一方韓国では、戦前から日本の政策により建てられた「小鹿島」に最大6千人が収容されていたが、戦後は多くの方が島から離れ全国に転々とした。はじめは療養施設も足りなく放浪していたが、やがて患者同士が集まって政府等から土地の提供を受け自活する「定着村」で生活するようになった。この定着村は多い時で100以上、現在でも91カ所あるという。
  (写真:小鹿島からのぞむ陸地、かつてはこの距離が「世界」の分け目を意味していた)

私が今回訪問したのは、前述の世界最大のハンセン病隔離島だった「小鹿島」と、定着村であるソウル郊外の聖ラザロ村、麗水(ヨス)のトソン村だ。他にも日本財団が建設支援したハンセン病研究院と、100年以上の歴史を持つヨスのハンセン病愛養園病院も視察した。

小鹿島のハンセン病療養所は1916年、韓国全羅南道に開設された。当時治らない「業病」とされ社会から深刻な差別を受けていたハンセン病患者の多くは放浪しながら物乞い生活をし、一つの社会問題となっていた。そこで朝鮮総督府は半島中のハンセン病患者を韓国南端の小鹿島に収容することで蔓延を防ぐという対策に出るようになる。その数は世界最大の6000人。日本の療養所でも行われていたことだが、労働の強要や子女を産ませないための断種、堕胎のみならず、過酷な体罰体罰としての断種も相当数行っていたという。もちろん献身的に患者に尽くした日本人医師や看護師がいたことも事実だ。いわば日本統治時代の縮図ともいえる歴史がこの島にはあるように思える。
現在は回復者の方が約600人暮らし、ほとんどの方が70歳以上の高齢者だ。子どもを持つ方もいるが、大半が島外で暮らし、島はややさびしい感じがした。最近島に橋がかけられ車で移動もできる。回復者の方々は電動車と呼ばれる四輪のバイクで島内を移動していた。

  (写真:現在島にかけられている橋とかつての船着場)

私が話を聞いた方は回復者同士で結婚し、子女も産まれたが、差別を避けるために養子に出し、子どもはアメリカに渡ったそうだ。今は電話で話をすると言っていた。韓国でらい予防法が改正された後のことだ。法律が改正されたとしても、ハンセン病の差別が家族にまで及んでいる一つの例だと言えよう。

回復者の方々は今でもあまり声を大きくして過去のことを話そうとはしない。そして、多くの方は療養所内でケアを受けながらの生活をされており、一般の人々がそのことを知る機会は少ない。あと十数年もすれば、今住んでいる回復者の方々も大半が天に召されることになるだろう。そうなると、やがて人々の記憶から消え去っていってしまうのだろうか。。
数千年間人類を苦しめてきた病気があと少しで世界からなくなろうとしている。しかし、私たち人間は、その歴史と記憶さえもなくしてしまってはいけないように思う。

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